天皇制 1
幼少期、私の家の奥書院の床の間の上部に、明治帝の御真影が
掲げてあった。
ハンサムな方であるな! と、子供ながら感じ入った。
実像を知るに至ったのは、中学生の頃であったが。
私が、天皇制を強く意識したのは、昭和33年の富山国体の頃であろう。
富山駅の近くで、お召列車から、両陛下の会釈というか、目線が合うというか、今でもゾックとした感じが残る体験をした。
昭和天皇のお顔から、輝くものが発せられて、当時、8歳の私が嬉しくなった。
自然と笑みが出て、横にいた母が怪訝そうな表情を浮かべたことを記憶している。
当時、小学3年生の私は、本の虫で、学校の宿題を済ませたら、食事時と、入浴等を除けば、新聞と読書に明け暮れていた。
ある種の虚弱児童であった。が、育ちが良かった為(貧乏でもそれを意識することは小学生のうちはなかった。高度成長前は田舎では四民平等が、ある程度、成り立っていたと思う。贅沢な物資が無いのだから!)、いつもにこにこしていて、大人の間では、評判が良かった。
成績は、95点を取ると廊下に立たされ、100点を取る義務が与えられていた。親と教師が示し合わせていたのか?
ともあれ、朝、親よりも先に新聞を読むものだから、何故か、母親が煩かった。
天皇の圧倒的な存在感を、子供ながらに親や教師にに問うても、戦中派の人々は、答えてはくれなかった。せいぜいが、「偉い人だから」 ということであった。
今、思えば、当然至極な反応ではあるが。
それが、大学の卒業論文で、「天皇制の社会的機能」 と題し、古代から昭和48年頃に至る、天皇家と外戚・閨閥の相関図を作り上げる契機になったのである。
このようにして、学歴エリートの路線をはずれ、引き込み線、ローカル線に入り込むことになったのである。
時々、後悔するが、懲りてはおらぬ!
好奇心の塊で、受験勉強は学校でするだけで、自宅では、怪人荒俣宏に近い何かの虫であった。
親を誤魔化すことも含め?